ひかりとかぜのとおりみち

言葉のあとさき

a0049639_21261536.jpg

昨日、新聞を読んでいたら、解剖学者の養老孟司さんがこんな趣旨のことを書いていました。
「『あ』という文字は『ア』と発音することになっていて『イ』とは読まない。文字は自然に存在するものではなく、人が作った形であって、それを『読む』のはつまり『音に変える』ことだ。そしてそれは(人間と動物を区別するという意味で)ずいぶん特別なことなのだ」
うん。そうですよね。特別だし、とてもとても不思議なことでもありますね。
「あ」という文字があって、その形を「ア」と発音する。当たり前と言えば余りに当たり前過ぎる約束事ですが、ではなぜそういう約束になっているか、本当の理由を説明できる人は、この世界に誰一人いないでしょう。そして、これから先、どんなに研究が進み、科学が発達しても、答えは得られないと思う。言葉がどこから生まれてきたか、その答えは、人間を人間たらしめる究極の根幹でありながら、同時に永遠の謎です。
「文字を『読む』のはつまり『音に変える』こと」とは、言葉とは音だ、という意味です。たとえ口から音を出さなくても、文字を読むとき、心の中では常に「無音の音」が鳴っています。だからこそ我々には「文字を読む」という行為が可能なのです。
来週から福島市の「珈琲楓舎」で開催する写真展のタイトルは「音のない言葉」です。音が無ければ文字を読むことはできません。でも、それでよいのです。今回、会場には、キャプションやステートメントの類は一切置かないつもりです。イメージをご覧になって、それをそのままに楽しんでください。そして、もしそこから何か言葉が浮かんで来るとしたら、それはきっととても大切な言葉ではないかという気がするのです。
[PR]
# by on-dori | 2014-02-05 21:56 | DP2 Merrill

光る時間

a0049639_2053094.jpg

朝、大井町駅前の高層ホテルで目を覚ますと、羽田沖から上る朝日が真正面に見えた。

[PR]
# by on-dori | 2014-02-03 20:58 | DP2 Merrill

増山たづ子写真展「すべて写真になる日まで」

a0049639_12263744.jpg

増山たづ子写真展「すべて写真になる日まで」(IZU PHOTO MUSEUM)を見に行った。

ダム建設のために湖底に沈む故郷、岐阜県徳山村の姿を記録に残そうと、愛用のピッカリコニカで10万枚の写真を撮り続けたお婆ちゃん、増山たづ子さん。
マスメディアに取り上げられる機会も少なくなかったから、ご存じの方も多いかもしれない。
増山さんは既に他界し、全村移住が終わって廃村になった徳山村はダムの底に眠っているが、彼女の写真が、在りし日の穏やかで、同時に悲しみに満ちた村の息吹を伝えてくれる。


* * *


IZU PHOTO MUSEUMは富士山の麓、東海道線三島駅からバスで30分弱の高台にある。
なぜ福島からわざわざ訪れたかと言えば、僕にとって徳山村が「父祖の地」だから、だ。その地の記録と記憶に、いま一度しっかり触れ直したいと思った。
父方の祖父母が村の生まれだ。ということは恐らく、その父母も、そのまた父母も、遡っても遡っても先祖たちの多くが同じ村の生まれ育ちだったに違いない。徳山村は揖斐川最上流の、山の向こうはもう福井県という、奥の奥に位置する静かな村である。そうした村によくありがちな「平家の落人伝説」も聞かれるが、実際には縄文時代、石器時代の昔から人の暮らしていた痕跡が見つかっている。
僕の家は祖父の代に東京に出て来て、その後戻ることはなかったから、実際の生活の面では縁遠くなって久しい。父は戦時中、疎開で何年間か暮らしたらしいが、そのときのことは尋ねても数えるほどしか話してくれなかった。いろいろと大変な思いをしたようだ。父は、徳山村のことも、戦争が終わって東京に戻ってきてからのことも、ほとんど話そうとしなかった。いつだったか、家族で「沖縄旅行に行きたい」という話が出たときも、ただ「俺は行きたくない」と言うばかりで、最後まで首を縦に振らなかった。いま思えば戦争を思い出させることに触れたくなかったのだろう。父が亡くなり、送る席で叔父たちから「疎開の最中、冬になると木の板でスキーを作ってもらって遊んだものだ」という思い出話を聞いた。父は物を作るのが得意な人だった。

増山たづ子さんは、ご主人が太平洋戦争で行方不明になり、弟も失い、戦後は村内で民宿を経営しながら暮らしていたとのことだ。写真を撮り始める前から、テープレコーダーを使って村の音の記録を作っていたというから、村への愛着と、何らかの形で記録に残したいという思いが人一倍強かったに違いない。写真と出会ってのちは、ひたすらに、本当にひたすらに、シャッターを切り続けた。写真展の会場には、残された膨大な数のアルバムが展示されているので、その気力と行動力の物凄さがわかる。
「国が一度やろうと思ったことは、戦争もダムも必ずやる」という述懐は切ない。そして、そうである以上、いくら反対してももう無駄だから村のすべてを写真に残そう、そう決めたらそれまでとは別な気力が湧き上がってきた、そんな彼女の言葉が強く胸に残った。キャプションとして写真に添えられた増山さんの小さな小さな呟きは、何もかも(目に見えるものだけでなく、目には見えず耳には聞こえないものまで)を見透かすはるかな深度を湛えている。山奥の川べりに立つ木一本、咲き誇る花一輪が、彼女にあらゆることを教えてくれたのだと、思う。

生前、父が話していたが、広い徳山村には集落が幾つもあり、増山さんの暮らした集落と、祖父母の生まれ育った集落とでは、習俗はまったく同じではないし、人の行き来も必ずしも頻繁ではなかったそうだ。これは徳山村に限らず、各地の山村部で同様に見られる現象だろう。また、現在の僕の視点から見るとき、たとえ父祖の地と言ったところで、写真で接する景色や人々の生き様からは最早遠く隔たっていて、かつて日本のどこかに存在した一山村の記録として受け止める以上には、感情移入は難しい。20年くらい前のことになるが、一度だけ、僕一人で村を訪れたことがある。そのときは離村が完了したあとで、大きな体育館の残骸を除いては建物もなく、明るい日差しの下でススキの穂が揺れ、透き通った緑色の川が真昼の輝きを放ちながら流れていた。河原ではバーベキューを楽しむ家族連れを何組も見かけた。
それでも今回、展示された沢山の写真を見てゆく中で、ふと、父にそっくりな風貌と佇まいの人物が写っている一枚に出会った。いや、父に、と言うより、自分自身にひどく似通っていると感じた。見た瞬間に、そうだと思った。血が、そこにあった。
[PR]
# by on-dori | 2014-02-02 14:47 | DP2 Merrill

見ることについて

a0049639_22163988.jpg

昨日、絵と写真について(ほんの少しだけ)書いたと思ったら、まるで何かが待ち構えていたかのように、次の文章に出会いました。


「雪は降って降っている。書斎から細い急な坂をおりて、田圃路(たんぼみち)に出る。沼の方は一帯に薄墨ではいたようになって、何時も見えている対岸が全く見えない。沼べりの枯葭(かれよし)が穂に雪を頂いて、その薄墨の背景からクッキリと浮き出している。その葭の間に、雪の積った細長い沼船が乗捨ててある。本統に絵のようだ。東洋の勝(すぐ)れた墨絵が実にこの印象を確に掴み、それを強い効果で現している事を今更に感嘆した。所謂(いわゆる)印象だけではなく、それから起って来る吾々の精神の勇躍をまで掴んでいる点に驚く。そして自分は目前のこの景色に対し、彼等の表現外に出て見る事はどうしても出来ない気がした。」


少し長くなりましたが、志賀直哉の短篇小説「雪の日−我孫子日誌−」からの引用です。
この小説は、小説というよりも或る穏やかな日常をデッサンしたかのような趣きで、しかしそれは決して悪いものではなく、質の良い日本酒を小ぶりなお猪口に注いでぐいと飲み干す、どこかそんな感じがして、読み終えてから「ああ、私小説というのはこういうものを言うのか」と、しばらく密かな感慨を抱きました。僕らの世代は、この小説が書かれた時代からはるかに後の生まれです。物心ついたときには既に、私小説は時代遅れの行き詰まった表現形式であり、物語小説こそ小説の本流であるという思潮が世の中の大半を占めていました。その上さらに、小説を始めとした文章芸術そのものの存在価値が疑われかねない時代が訪れましたから、敢えていまこのような小説に初めて触れると、朝起きて、思いがけなく降り積もった新雪を窓の外に見たときのような、懐かしい新鮮さを覚えます。
話が逸れました。
上に挙げた一節において、志賀直哉は、人が何かを見ることについてのとても大切な、本質的な中味を述べています。二つのことを述べている、と思います。
一つは「人は常に『既に見たもの』を見ている」という事実です。これはわかりやすい考え方です。既成の価値観や先入観によって物事を見、判断しているという感覚は、我々にとって親しいものです。
ただ、ここで志賀がそうした世間知的な感覚についてのみ述べているかと言うと、決してそうではないと思うのです。志賀は、我々がついそうしてしまう、言わば癖や習慣のようなことについて言っているのではなく、どうあがいてみたところで、人間として生まれてきた以上、結局はそうならざるを得ないという、原理的で諦念的な世界観について語っているのではないでしょうか。
例えば、我々は赤ん坊を育てるとき、物事の意味について教えます。意味と意味との繋がり、すなわち文脈を教えます。赤いリンゴを赤ん坊の目の前に差し出して「これはリンゴだよ。赤い色をしているね」と教えます。これを繰り返すうちに、赤ん坊の眼と心には「赤い」と「リンゴ」が刻みつけられるでしょう。そのようにして、この世のことを何一つ知らなかった(=見えていなかった)赤ん坊は物や事を「認識」し、認識することによって世界を既視感で埋め尽くしてゆく。その過程を我々は人の「成長」と呼びます。我々はそのことを喜びます。「いつまでも幼子の心を失わないで欲しい」と、言葉で言う親はいるかもしれませんが、本心からそう信じる親はいないでしょう。他人より一歩でも早く既視感を身につけることが、我々の社会では(現代のみならず、はるか昔から)求められているのを誰もが知っています。
「人は常に『既に見たもの』を見ている」とは、認識の謂です。人が何かを認識するとは、原理上どうやっても「新たな認識」ではあり得ず(なぜなら、無垢の赤ん坊が教わる初めての物や事はすべて、過去の誰かの認識の結果なのですから!)、前を見ているつもりでも、本当は鏡に映る過去を見ているだけなのかもしれません。そうした回路を通してしか世界を把握することが許されていないとすれば、我々の意識はいつも「過去に見たことのあるものしか見ることができない」という袋小路に追い詰められていることになります。故に我々は「彼等の表現外に出て見る事はどうしても出来ない気が」するのです。
けれども、ここまで述べておきながら、志賀の書いていることは、それとはまた少し違ったことのようにも思えます。
彼は、芸術作品の持つ予言性についても述べています。
「本統に絵のようだ」という志賀の言葉は、単に墨絵そっくりの風景、風景そっくりの墨絵への賛辞に留まっていません。ましてや、東洋精神の西洋精神への優越を謳っているのでもない。
志賀は、優れた芸術作品が「新たな認識」を生み出し、呼び起こす(万に一つの)可能性について語り、また、そのことを本気で信じているやに思われます。
もちろん、そうやって生まれた「新たな認識」も、あっという間に既視感へと変貌します。生まれた瞬間から変質すると言ってもいい。だからこそ、結局は志賀も「彼等の表現外に出て見る事はどうしても出来ない気がした」と書かざるを得ないのですが。
写真は(と、ようやく写真の話になります)、その誕生の始まりにおいては、人間に「新たな認識」を与えてくれる素晴らしい道具だったのだと想像できます。「機械の眼」は、無垢であると同時に、人の認識を軽々と超越し、断罪する残酷な正直さ、精緻さを併せ持っています。ただし、写真が写真であるというだけでその清新な役割を果たすことができたのはもうずっと昔の出来事で、我々はまたもや「彼等の表現外に出て見る事はどうしても出来ない気がした」と呟きながら嘆息するしかない状況に置かれている、そう言い切っては酷でしょうか。
[PR]
# by on-dori | 2014-01-21 22:23 | M8 + SUMMARIT 35mm

何を見る?

a0049639_2284224.jpg

カロス・ギャラリー(仙台市)で開催中の「Sha-gaku vol.7」に出展している僕の作品のタイトルは「a picture」です。タイトルどおり1点のみの出展。そして、どこか不遜な名付けですね。
この写真を撮ったのは、昨秋、岩手県立美術館にアントニオ・ロペス・ガルシアの展覧会を見に行った帰り道です。近寄って写真を見ていただくと「先人記念館」と書かれたバス停が写っています。
アントニオ・ロペス・ガルシアは、スペインの高名なリアリズム画家です。
「リアリズム=超細密描写」に留まらない、人間が感じるリアルとは何かを徹底して追求している画家だと思いました(そして同時に、画面の奥から吹き零れるような叙情性と硬質な美しさを有しています)。
高みにある彼の絵を見た後、しばらくして、刺激と興奮の残り香を元に、この作品を作りました。
写真を見て「絵みたいな写真だ」と言う、あるいは、絵を見て「まるで写真のようだ」と呟く、その関係の不思議さを見る人に問いたいと思いました。故にタイトルも、絵であり写真でもある、ダブルミーニングとしています。
もしかしたら、英語圏の人々は「picture」が絵も写真も両方を意味することに、余り違和感を感じていないのかもしれませんね。単語自体がそうであるように。
日本語でも、写真を指して「絵」という言い方をするときがあります。
絵なのか、写真なのか、作品の中にその答えはありません。いや、写真なんです。「『写真みたいな絵』みたいな写真」なんです。
[PR]
# by on-dori | 2014-01-20 22:35 | M8 + SUMMARIT 35mm