ひかりとかぜのとおりみち

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今年の秋 02

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西日を浴びるブナ林。
秋と夕暮れは、相性よいですね。

さて、前にチラリと書いた機材更新の件、手始めに液晶モニタを購入しました。
ナナオの「ColorEdge CX240」です。
使い始めたばかりですが、安定感のあるニュートラルな発色で、信頼できるモニタだと感じています。
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by on-dori | 2012-10-31 19:51 | GXR with 24-85mm

今年の秋 01

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秋は早足なので、一週間前には見事な紅葉だった枝が次の週には丸裸、なんてことも茶飯事です。
幸い(と言うべきか?今の季節は言うべきでしょう!)、福島市は四方を山に囲まれた盆地なので、山のてっぺんから降りてくる赤や黄色の帯模様を最初から最後までたっぷり楽しむことができます。

しばらく、秋の写真を連投します。
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by on-dori | 2012-10-30 21:11 | DP2 Merrill

静かに、そして、強く。

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二つの展覧会を見ました。

木内啓樹「木彫・漆」展
「珈琲 楓舎」での展示を通じて知り合った木内さん。
抜群のデザインセンスと細部まで神経の行き届いた作り込みは、紛れもないアートです。
伝統工芸の枠に収まらない、バラエティに富んだ作品が多数展示されています。
中合百貨店 福島店 一番館 7階工芸サロンにて。今月30日(火)まで。

斎藤真実 絵画展
どちらかというと攻撃的な作風の作家が多いと感じる抽象絵画の世界ですが、齋藤さんの作品には、ずっと同じ空気を吸っていたくなる穏やかさと柔らかさがあります。
同時に、深いところで見る者の感覚を刺激する非日常性を併せ持っています。
「珈琲 楓舎」にて。11月5日(月)まで。
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by on-dori | 2012-10-27 19:37 | DP2 Merrill

どうしよう?

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新しいMac mini、買っちゃうかもなあ・・・。
併せて、液晶モニタやプリンタも更新しようか・・・。
数年ぶりに、写真制作の作業環境を刷新するかどうか、検討中です。
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by on-dori | 2012-10-24 19:44 | DP2 Merrill

写真を巡る七つの断章

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メインサイトのコラム欄を更新しました。
最近ブログにアップした文章から、写真について述べた七つを選んで、まとめたものです。

「写真を巡る七つの断章」http://lightandbreeze.net/column/column_11.html

写真を撮ることと、「写真とは何か」を考え、それを文章にまとめることは、僕にとって「車の両輪」です。
考えていることを常に言葉に置き換えてゆくのが大事なんです。作品展を開催する段になってようやく、キャプションやステートメントを書き始めるのでは遅いのです。
逆の言い方をすれば、作品展の際のステートメントなんて、無くたっていい。写真がすべてを物語っていさえすれば、それでよいわけですし、そうあるべきです。そこに至るまでの間に、自分の中で繰り返される果てしない対話が写真を作ってゆくのだと思っています。
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by on-dori | 2012-10-23 19:53 | DP2 Merrill

リアリティの行方

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もう一度だけ、「写真とリアリティ」の話を続けます。

スペイン内戦のさなか、銃弾に倒れる共和国軍兵士の姿をこれ以上はないタイミングで捉えた「崩れ落ちる兵士」は、戦争の非情さを広く世界に伝えると同時に、戦場写真家としてのロバート・キャパの名声を一躍高める役割も果たしました。しかし、一方で「演出写真ではないか」との指摘も消えぬままです。もしかしたら、見事な「演出」だったからこそ、大勢の共感を得ることができたのかもしれません。
アンリ・カルティエ=ブレッソンや木村伊兵衛が残したストリートスナップは、リアリズムを極めた世界ですが、余りに極まりすぎて、逆に「映画のワンシーン」のように、どこか作り物めいて感じられるときがあります。
ドキュメンタリーあるいはジャーナリズムの側面が強い写真も、時が経つと、アートとして扱われることがよくあります。実は、写真においては、「フィクションとノンフィクション」「記録と芸術」の間にさほど明瞭な線引きはないのです。人間それ自体が、「ここまではフィクション」「ここから先はノンフィクション」と切り分けられる存在ではないことを考えれば、それも自然な成り行きと言えるでしょう。
砂丘の写真で有名な植田正治は、明らかに演出を施されたフィクションであるにも関わらず、人の無意識に訴えかける独自の「リアリズム」を有する写真家です。
世界を植物図鑑のように切り取りたかった中平卓馬。現実を現実のまま何の脚色もなく撮影された写真から、まるで白昼夢のような奇妙な酩酊感が押し寄せてくるのはなぜでしょうか?
アメリカの風土を醒めた視線でコレクションしていったニューカラーの写真家たちは、「夢想的アメリカ」「反語的存在としてアメリカ」を撮ったとは言えないでしょうか?
最近、海外の写真家を中心に、演劇的な作り込みを表現の核に据えた作品が目立ちます。思うに、現代という、情報と物量の巨大な流れに立ち向かうために彼らが選んだ方法論がそれなのでしょう。
もちろん、リアリティだけが、写真を制作し理解し分析する切り口ではありません。
「リアリティのまったく感じられない写真」「リアリティの有無を端から問題にしない写真」という選択も、当然のこととしてあり得ます。その場所において初めて、写真は現代アートと接続されるのです。それが写真や写真家にとって幸せと呼べるかどうかは、今はまだわからないのですが。
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by on-dori | 2012-10-22 22:02 | DP2 Merrill

リアリティの在処

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福島県立美術館には、アメリカの画家アンドリュー・ワイエスの優品が常設展示されています(それらを見るためだけでも足を運ぶ価値があると思います。また、関根正二の油絵、斎藤清の版画、橋本章の抽象画も)。
ワイエスの「松ぼっくり男爵」は、松並木の道端に無造作に置かれた軍用ヘルメットと、籠代わりに使われたヘルメットいっぱいの松ぼっくりと、午後の斜光線、それだけを描いた静かな作品です。ワイエスらしく、恐ろしいくらいのリアリティが、その端正な画面から立ち上って来ます。
「まるで写真みたいだ」と、この絵を見た人の多くは感じるのではないでしょうか。確かに、そうです。
ですが、もし同じ時刻に同じ場所で同じ光景を写真に写したとしたら、きっと、ワイエスの絵から感じられるリアリティの百分の一も生み出せはしないのではないでしょうか。恐らく、もっとだらしなく、緊張感の失われた一枚に終わるでしょう。
写真の場合、「シャッターボタンを押せば目の前の光景がそのまま写る」という原理に単純に従ってしまうと、どういうわけか、かえってリアリティが損なわれてしまうのです。客観的にはリアルなのかもしれませんが、人間の感性に響いてくるリアルには届かないのです。写真が人間の感性に訴えるリアルを獲得するためには、「写真的」ではなく「絵画的」なドラマティックさを要求されるという逆説がそこにはあります(そして、ワイエスの絵に対しては「写真みたいだ」と感じてしまう逆説もまた)。
人の心は、現実が生々しいほど、それをまるで夢のようだと感じてしまうおかしな性質を持ちます。また、反対に、夢の方が現実よりもずっと現実らしく感じられるという事態も起き得ます。人間の、決して秩序立って整理されているとは言いがたい意識は、ときに過去の出来事をどこか遠い未来のように感じ、あるいは、将来起きるかどうかもわからないさまざまな想像を現在に持ち込んで幸せになったり不幸になったりします。
写真とは、そうした不可解とも呼べる人間の心性に極めて近く寄り添う、解析不能なメディアです。
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by on-dori | 2012-10-21 15:19 | DP2 Merrill

何を見ても写真を思い出す

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福島県立美術館で『いのちの煌めき/田渕俊夫展』を見てきました。

現代において日本画を描くという行為に真摯に向き合った、見応えのある展覧会でした。
壮年期の作品には、構図の作り方や陰影の付け方に、写真を感じさせるものが多くありました。それが意識的なのか、そうでないのかはわかりませんが、僕の予想では、敢えて意識的にそのような作品を描いたのではないかと想像します。ほかにも、グラフィックアートと呼んで差し支えない作品が展示されていました。

一般的に言って、写真と日本画は相性がよいです。
中でも、花鳥風月を表現することに関しては、その精神において、日本の風景写真は日本画の正当な後継者と言ってよいのではないかと、僕は常々思っています。
また、我々は日々の暮らしにおいて、極めて大量の写真に接しています。その結果、写真の感覚を用いて視覚イメージを処理するということが、表現者に限らず、ほとんどの現代人に無意識のレベルで浸透しているのではないかとも考えます。だからこそ、多くのアート分野のクリエーターたちが写真へと接近し、写真を利用しようとするのですが、一方では、そのようにして写真という表現形式が社会に余りに広く薄く存在している故に、自立した形でアートたり得ることが極めて難しい環境に置かれているのだとも言えます。

そうした状況を踏まえて、写真によるアート表現を志す者が、旧来の「写真らしい写真」へと回帰する道を選ぶか、それとも、一度作られ流布された様式美を自らの感性に照らして作り替える方向に向かうか、その選択に写真のこれからが掛かっているように思うのですが、どうでしょうか(やや唐突な結論であり、問い掛けですけれどね)。
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by on-dori | 2012-10-20 18:04 | DP2 Merrill

沖縄のカフェ

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今日、書店で「ブルータス」誌のコーヒー特集を立ち読みしていたら(・・・何を隠そう、僕は「立ち読み魔」なのです^^;)、先月沖縄に行ったときに立ち寄ったカフェが紹介されていた。
那覇の牧志公設市場となりにある「THE COFFEE STAND」。
そのときは予備知識も何もなくて、たまたま目に留まったカフェに入ったんだけど、時間を掛けて丁寧に淹れてくれたコーヒーがとても美味しかった。オススメします。
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by on-dori | 2012-10-16 21:14 | DP2 Merrill

咲くか、伸びるか。

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書店で種田山頭火句集のページを捲っていたら、次の一句に目が留まった。

「伸びるより咲いてゐる」

そうなのか。
枝を伸ばすより、今ここで咲くことを選んだ花があった、わけだ。
咲くか、伸びるか、それとも・・・。
選択は人それぞれ・・・いや、その人の資質、そして周囲の環境が大きいだろう。
少なくとも、植物はそうだ。
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by on-dori | 2012-10-14 18:11 | DP2 Merrill