ひかりとかぜのとおりみち

増山たづ子写真展「すべて写真になる日まで」

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増山たづ子写真展「すべて写真になる日まで」(IZU PHOTO MUSEUM)を見に行った。

ダム建設のために湖底に沈む故郷、岐阜県徳山村の姿を記録に残そうと、愛用のピッカリコニカで10万枚の写真を撮り続けたお婆ちゃん、増山たづ子さん。
マスメディアに取り上げられる機会も少なくなかったから、ご存じの方も多いかもしれない。
増山さんは既に他界し、全村移住が終わって廃村になった徳山村はダムの底に眠っているが、彼女の写真が、在りし日の穏やかで、同時に悲しみに満ちた村の息吹を伝えてくれる。


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IZU PHOTO MUSEUMは富士山の麓、東海道線三島駅からバスで30分弱の高台にある。
なぜ福島からわざわざ訪れたかと言えば、僕にとって徳山村が「父祖の地」だから、だ。その地の記録と記憶に、いま一度しっかり触れ直したいと思った。
父方の祖父母が村の生まれだ。ということは恐らく、その父母も、そのまた父母も、遡っても遡っても先祖たちの多くが同じ村の生まれ育ちだったに違いない。徳山村は揖斐川最上流の、山の向こうはもう福井県という、奥の奥に位置する静かな村である。そうした村によくありがちな「平家の落人伝説」も聞かれるが、実際には縄文時代、石器時代の昔から人の暮らしていた痕跡が見つかっている。
僕の家は祖父の代に東京に出て来て、その後戻ることはなかったから、実際の生活の面では縁遠くなって久しい。父は戦時中、疎開で何年間か暮らしたらしいが、そのときのことは尋ねても数えるほどしか話してくれなかった。いろいろと大変な思いをしたようだ。父は、徳山村のことも、戦争が終わって東京に戻ってきてからのことも、ほとんど話そうとしなかった。いつだったか、家族で「沖縄旅行に行きたい」という話が出たときも、ただ「俺は行きたくない」と言うばかりで、最後まで首を縦に振らなかった。いま思えば戦争を思い出させることに触れたくなかったのだろう。父が亡くなり、送る席で叔父たちから「疎開の最中、冬になると木の板でスキーを作ってもらって遊んだものだ」という思い出話を聞いた。父は物を作るのが得意な人だった。

増山たづ子さんは、ご主人が太平洋戦争で行方不明になり、弟も失い、戦後は村内で民宿を経営しながら暮らしていたとのことだ。写真を撮り始める前から、テープレコーダーを使って村の音の記録を作っていたというから、村への愛着と、何らかの形で記録に残したいという思いが人一倍強かったに違いない。写真と出会ってのちは、ひたすらに、本当にひたすらに、シャッターを切り続けた。写真展の会場には、残された膨大な数のアルバムが展示されているので、その気力と行動力の物凄さがわかる。
「国が一度やろうと思ったことは、戦争もダムも必ずやる」という述懐は切ない。そして、そうである以上、いくら反対してももう無駄だから村のすべてを写真に残そう、そう決めたらそれまでとは別な気力が湧き上がってきた、そんな彼女の言葉が強く胸に残った。キャプションとして写真に添えられた増山さんの小さな小さな呟きは、何もかも(目に見えるものだけでなく、目には見えず耳には聞こえないものまで)を見透かすはるかな深度を湛えている。山奥の川べりに立つ木一本、咲き誇る花一輪が、彼女にあらゆることを教えてくれたのだと、思う。

生前、父が話していたが、広い徳山村には集落が幾つもあり、増山さんの暮らした集落と、祖父母の生まれ育った集落とでは、習俗はまったく同じではないし、人の行き来も必ずしも頻繁ではなかったそうだ。これは徳山村に限らず、各地の山村部で同様に見られる現象だろう。また、現在の僕の視点から見るとき、たとえ父祖の地と言ったところで、写真で接する景色や人々の生き様からは最早遠く隔たっていて、かつて日本のどこかに存在した一山村の記録として受け止める以上には、感情移入は難しい。20年くらい前のことになるが、一度だけ、僕一人で村を訪れたことがある。そのときは離村が完了したあとで、大きな体育館の残骸を除いては建物もなく、明るい日差しの下でススキの穂が揺れ、透き通った緑色の川が真昼の輝きを放ちながら流れていた。河原ではバーベキューを楽しむ家族連れを何組も見かけた。
それでも今回、展示された沢山の写真を見てゆく中で、ふと、父にそっくりな風貌と佇まいの人物が写っている一枚に出会った。いや、父に、と言うより、自分自身にひどく似通っていると感じた。見た瞬間に、そうだと思った。血が、そこにあった。
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by on-dori | 2014-02-02 14:47 | DP2 Merrill