ひかりとかぜのとおりみち

井戸

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この前、東京・青山の根津美術館に行って来た。
庭が綺麗だった。随分と広くて凝ったお庭で、夕暮れ近くになってから行ったものだから、迷路のような細い道をあちこち歩き回っているうちに、すっかり身体が冷えてしまった。
その後、開催中だった井戸茶碗の展示会を見た。確か高校生のときだったと思うけれど、国語の教科書に小林秀雄の「真贋」という文章が載っていて、そこに書かれていた「喜左衛門井戸」の挿話が妙に頭にこびりついて離れず、結局、20年以上経ってから実物を見に行ったのだ。

率直な感想を書くと、井戸茶碗の世界は僕には難しくて、とても手に負えないと思った。国宝・重要文化財を含め70点もの井戸茶碗が並んだ展示は壮観だったし、凄いものを見たという気がするにはするのだが、どこが凄いのか、上手く言葉にできない。それでも、
「これはなかなかよいなあ」
と思いながら眺めていると、隣に並んだカップルが同じものを指さして
「これ、いいよ」
と言ったりするのだから、どこかに必ず「良さ」の共通項のようなものはあるのだと思う。
「井戸茶碗は難しかった」という話を、福島に帰ってから「風花画廊」の主で陶芸家の後藤五木さんに伝えたところ、
「実際に使ってみたら、また違った感覚があるかもしれませんよ」
との返答をもらった。
なるほど、それはそうだ、と合点する。小林秀雄も、美の日常性を奪回したければ「美と実際に交際してみる喜怒哀楽によるほかはない」と書いているではないか。
とは言え、僕がこの先、青山で目にした井戸茶碗の一つでも実際に手に取って茶を点てたり、あるいはまかり間違って所有したりなどという事態は微塵も考えつかない。ただ、こうして美術館に並べられ、千数百円を支払った観客の前でミイラのように展示される数世紀前には、確実に人の温かな手で、実用の道具として使われていたのだということを(かろうじて、かもしれないが)、しばし想像する。

お目当ての「喜左衛門井戸」はガラスケースの真ん中に鎮座して、四方から鑑賞できる状態で展示されていた。
困ったことに他のどの井戸茶碗よりも見窄らしく見えた。周囲の人たちも皆、どことなく困惑した表情を浮かべている。
「これが本当に国宝なの?」
と言いたげにすら見える。
「喜左衛門井戸」は、全体に歪んだ、アンバランスな形をしていて、肌も荒い。粗雑、という印象さえ覚えた。
俺の感覚が鈍いのか、と思ってもう一度、睨むように見入る。茶碗は素っ気ない表情で澄ましている。世の中のあらゆる出来事に無関心な人のようでもある。
コイツ、叩き割ってやったらどうか、と思う。すると、過去、どれだけの数の人が同じことを考えただろうか、という思いが浮かんできて、おかしくなる。茶碗は在らぬ方角を見ている。そんな存在感がある。
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by on-dori | 2013-12-16 22:04 | DP2 Merrill