ひかりとかぜのとおりみち

あの街

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今日は長崎原爆忌でした。
僕は子供の頃、長崎市に住んでいました。
当時通っていた小学校は爆心地からほど近く、毎年8月9日になると、全校児童が登校して平和祈念式典を開催していました。
校内の一角には防空壕の跡がぽっかり口を開けていました。何より、校舎それ自体が、被曝した当時のものを修繕した上で、そのまま使用していたのでした。内部は一旦すべて焼けてしまったのですが、鉄筋コンクリートの頑丈な建築物であったため、原爆の爆風にも耐え、内装を作り直して、昭和の終わり頃までずっと使われ続けたのです。
小学生だった頃は、そのことに特に疑問を抱いたりもしませんでしたが、振り返って考えてみれば、広島の原爆ドームを修理して戦後も使い続けたというような話で、不思議と言えば不思議です。
窓枠の建付けが悪くて(というよりも、構造がクラシック過ぎた)、冬になれば隙間風が吹き込んで寒くて堪らなかった、そんな記憶が残っています。
その後、建て替えられ、僕も5年くらい前に旅行で訪れたことがありますが、敷地の何カ所かに面影を残すのみで、すっかり様変わりしていました。正直な気持ち、もう少し遺構を残してもらえたらという思いも、なくはありません。
あるいは、貴重な被曝遺構として保存した上で、別の場所に新校舎を建設するという選択肢もあったのではないかと思います。恐らく、そうした議論も行われたことでしょう。被爆者も既に多くの方が亡くなり、原爆の記憶を受け継いでゆくには大きな困難が伴います。簡単には滅びぬモノの役割というのは、そういうときにこそ発揮されるように思われます。もちろん、保存後の管理は難しい問題ですが。
当時、一番仲のよかった友達は、父親が市内の軍需工場で被曝していました。体内から取り出したガラスの破片を見せてもらったことがあります。彼、今頃、どこでどうしているのかな。
長崎は、僕の中の「思い出の街」です。毎年一度、あの街のことを強く思い出します。ですので、今日書いたことには、僕自身のノスタルジーが多く混ざり込んでいます。
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by on-dori | 2013-08-09 19:43 | DP2 Merrill