ひかりとかぜのとおりみち

カタログ的、量子的

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先週の日曜日のことになりますが、国立新美術館で「アンドレアス・グルスキー展」を見ました。現代における最先端、最高峰とみなされるドイツ人写真家の作品展です。

会場を訪れる前は、大きな期待はしていませんでした。プリントが億単位で取引されると聞いて、話題先行型の、メディアが作り上げた偶像なのかとも疑っていました。あるいは「グローバル経済」という名のクライアントが自らの宣伝のために雇った究極の広告写真家なのではないか、とも。
「(同じドイツ人写真家である)ヴォルフガング・ティルマンスの方が、僕は好きだな」
などと、子供っぽい感想を前もって抱いたりもしていました。
実際には、まったく違いました。
パーフェクトな眼と手と頭脳の働きによって創り出された、至高の世界がそこには存在しました。
あくまで僕の個人的な感覚に依りますが、以下のような感想を持ちました。列挙します。

・コンセプト先行の臭みをまったく感じない。巨大で、圧倒的な存在感を放つ作品群だが、そのような展示につきものの押し付けがましさは、皆無。まるで意識の内奥に耳を澄ますような静けさに満ちている。
・彼にとって、コンセプトとは、アート界の厳しい北風を遮るために羽織った「上着」のようなものではないか。僕には、彼が、秀徹した美意識をすべての基盤とする作家に思える。加えて、生真面目な諧謔性。美意識重視という点ではティルマンスとの共通性を強く感じる。ただし、ティルマンスのような血の匂いや、エロスの表出は無し。
・写真は自由だ、と言っている。
・カタログ的。量子的。日本における写真は、一枚一枚の写真同士の関係性及び作品全体として、何らかの物語(すなわち、情緒)を不可欠とみなす傾向があるが、そうした感覚をブルドーザー的に押し潰す物量と密度とを備えている。「カタログ的」とは、日本のポートフォリオレビューでは悪い評価として使われる用語だが、今回のグルスキー展を見たあとでは、物語性に頼った作品構成のあり方が、やけに古臭いものに思えてくる。
・新しい時代の写真を撮らなくては。この写真展を見てしまったからには。しかし、グルスキーも、ティルマンスも、その背中は余りにも遠い。そして、彼らの背中を追い掛けたところで、何の意味もないのだ。


アンドレアス・グルスキー展
http://gursky.jp
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by on-dori | 2013-07-29 21:17 | E-M5 + SIGMA60mmF2.8