ひかりとかぜのとおりみち

能のこと

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今日は「芸術新潮」を立ち読み(書店の皆さま、版元の皆さま、いつも立ち読みばかりでスミマセン。ときどきは買ってます。それに、本は、立ち読みで読むのが一番楽しいんです。本たちは、書店に居るときが一番輝いているんですヨ)。
さて、特集は「はじめて観る能」。
能は、本当に面白いです。僕は学生時代、少しだけ齧ったことがあります。謡や仕舞を練習し、ときには紋付袴をつけて舞台に立ち、あるいは渋谷松濤にある観世能楽堂の床を糠袋で磨いたり、楽屋にも出たり入ったり、師匠筋の演能を観るため結構頻繁に足を運びました。
その頃はまだ若くて、あれこれ自分の殻の中で悩んでばかりいる煮え切らない青年だったものですから、周囲にご迷惑をかけること多々あったのですが、いま振り返ってみて、とてもよい経験をしたなと思っています。日本文化の粋と呼べるものに、ごく身近に接することができたのですから。
さて、多くの人が、能を見ると「眠くなる」と言います。もっとはっきり「退屈だ」という人もいます。
実際、僕も、大体いつも眠くなりました。「退屈」かどうかは何とも言えませんが、能を見ていて「眠くなる」のはおおむね事実です。そして、僕は、そうやって半分眠りこけながら観るのが、能の一番正しく、かつ、楽しい見方なのではないかと当時から思い、いまもそう思っているのです(確信しているのです)。残念ながら、誰も同意してくれませんけど・・・。
そもそも、能というのは、ストーリーを楽しむための演劇ではありません。一応ストーリーらしきものはあるにはあるのですが、それがなければ「始まって終わる」ことができないから取り敢えずついているようなもので、起承転結や劇的な展開や論理的な構成や登場人物同士の自我と自我とのぶつかり合いなどといった要素はほとんど含まれていません。時間も空間も人格も、その輪郭が溶けるように滲み出て、一つの仮想的異空間のような場を作り上げるのが、能です(と、勝手に断言してしまいます)。
それは、能の台本(そう呼んでよいなら)である謡本を追ってゆくとよくわかります。そこでは、過去の和歌や物語や漢籍から取り出されたさまざまな言葉が網の目を作るように幾重にも掛け合わせられ、観る者に、それぞれの演目が表現しようとする或る一つの「主題的なもの」を想起させようと働き掛けます。
例えば、「須磨の浦」が舞台だよ、在原行平に縁のお話だよ、という能であれば、「須磨の浦」という場を示す言葉を起点に、そのイメージを増幅させるための言葉が古今東西の文学的素材を駆使して派生的・連鎖的に繰り広げられ、ヴィジュアルとして舞、さらに五感を直接的に刺激する楽器とバックコーラス(謡)の効果が相まって、結果、舞台の上の「須磨の浦」は既に現実の「須磨の浦」の模写ではなく、抽象的な場としての「須磨の浦」になってゆく。気がついたときには、まるで雲に乗ったような、感覚世界の一部としての「須磨の浦」にいて、どこからともなく押し寄せてくる波の音に耳を澄ます自分と化している。そうしたイマジネーションの飛躍を楽しむための装置が能なのです。意識を日常から遊離させ、遠く離れた世界へ向かって心を投げ出す。ある意味、究極のエンターテインメントです。

・・・と、ここまで書いて、この文章はかなり長くなりそうな気がするので(今日は最後まで書き進められるスタミナもないので)、これで一旦止めておきます。中途半端で申し訳ない。また、そのうち・・・。
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by on-dori | 2012-11-29 21:31 | DP2 Merrill