ひかりとかぜのとおりみち

リアリティの行方

a0049639_21521435.jpg

もう一度だけ、「写真とリアリティ」の話を続けます。

スペイン内戦のさなか、銃弾に倒れる共和国軍兵士の姿をこれ以上はないタイミングで捉えた「崩れ落ちる兵士」は、戦争の非情さを広く世界に伝えると同時に、戦場写真家としてのロバート・キャパの名声を一躍高める役割も果たしました。しかし、一方で「演出写真ではないか」との指摘も消えぬままです。もしかしたら、見事な「演出」だったからこそ、大勢の共感を得ることができたのかもしれません。
アンリ・カルティエ=ブレッソンや木村伊兵衛が残したストリートスナップは、リアリズムを極めた世界ですが、余りに極まりすぎて、逆に「映画のワンシーン」のように、どこか作り物めいて感じられるときがあります。
ドキュメンタリーあるいはジャーナリズムの側面が強い写真も、時が経つと、アートとして扱われることがよくあります。実は、写真においては、「フィクションとノンフィクション」「記録と芸術」の間にさほど明瞭な線引きはないのです。人間それ自体が、「ここまではフィクション」「ここから先はノンフィクション」と切り分けられる存在ではないことを考えれば、それも自然な成り行きと言えるでしょう。
砂丘の写真で有名な植田正治は、明らかに演出を施されたフィクションであるにも関わらず、人の無意識に訴えかける独自の「リアリズム」を有する写真家です。
世界を植物図鑑のように切り取りたかった中平卓馬。現実を現実のまま何の脚色もなく撮影された写真から、まるで白昼夢のような奇妙な酩酊感が押し寄せてくるのはなぜでしょうか?
アメリカの風土を醒めた視線でコレクションしていったニューカラーの写真家たちは、「夢想的アメリカ」「反語的存在としてアメリカ」を撮ったとは言えないでしょうか?
最近、海外の写真家を中心に、演劇的な作り込みを表現の核に据えた作品が目立ちます。思うに、現代という、情報と物量の巨大な流れに立ち向かうために彼らが選んだ方法論がそれなのでしょう。
もちろん、リアリティだけが、写真を制作し理解し分析する切り口ではありません。
「リアリティのまったく感じられない写真」「リアリティの有無を端から問題にしない写真」という選択も、当然のこととしてあり得ます。その場所において初めて、写真は現代アートと接続されるのです。それが写真や写真家にとって幸せと呼べるかどうかは、今はまだわからないのですが。
[PR]
by on-dori | 2012-10-22 22:02 | DP2 Merrill