ひかりとかぜのとおりみち

自由への機縁

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最近、写真に関するセミナー等で、
「写真史における位置づけを踏まえて、作品を解釈する必要がある」
というメソッドを耳にしたことのある人は多いと思います。
僕は、この考え方には反対しません。
ですが、僕自身がこの考え方に沿って思考し、作品制作を行うことは、断固拒否します。
なぜなら、このメソッドは、クリエーターがオリジナルでパワフルな作品制作を目指す上で、明らかに大きな障害になると考えるからです。
もちろん、美術史の研究者やキュレーター、評論家などを目指すのであれば、欠かすことのできない視点だとは思います。「写真を写真史における位置づけで解釈する」とは、学術であり、批評であり、つまり、あくまで外部的な評価の一手段です。
「歴史を参照する」とき、その歴史を一つのスタンダードであると考えて参照するならば、思考や発想の自由というものは制限されると考えた方がよいでしょう。そこでは、参照される歴史の文脈に合致している作家や作品がその歴史の文脈の都合に従ってマッピングされ、そうでないものは捨てられます。答えが最初から決まっているゲームに取り組むようなものであり、それはすなわち(あなたが子供の頃から馴れ親しんできた、あの)「勉強」なのです。
「歴史を参照する」とき、「歴史」とは常に一面的なものの見方であり、無数の視点から紡ぎ得る無数の歴史の中からピックアップされた一視点に過ぎないという性質を知った上で、易々と「歴史の中に位置づけられない」ダンスを踊り続けるならば、そこに自由への機縁が生まれます。
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by on-dori | 2012-09-27 21:37 | DP2 Merrill